昭和五十一年十一月二十二日 朝のご理解
松永享四郎
ご理解第八十七節
「腹は借り物というが、借り物ではない。万代の宝じゃ。懐妊の時は、神の氏子がわが胎内におると思うて大切にせよ。」
今の言葉で云うと、胎教と云う事でしょうかね、確かに胎教が、私の北京時代に、近所にご夫婦共そんなに大して、器量がようなかったですけど、もうそこの息子さんは、一寸それこそ一寸可愛らしい息子さんが居りました、それがですね、もうあのう、自分の部屋にね、あのう山田五十鈴とかね、当時林長二郎と云う、兎に角美男美女の写真をね、いっぱい張って飾ってありました、その人の家に、それをず-っと見よるから、やっぱりそげん可愛いらしか子供が生まれるんだろうと云う事でした、近所に評判した事がありました。
もうそれは本当に可愛いらしかった、息子は色の白うしてから、なら夫婦がそげん器量が良いかと云うと云う事ではなかった、胎教のなせるわざだと、ね、いつも美しいものばっかり見ておるから、美しくなる、まあそれがどこまで当たっているか判りませんですが、胎教と云うものは、やはり、お母さんが根性悪い事ばっかり思いよると、根性の悪い子供が生まれる。
美しい心に心掛けさせて頂くと、美しい心の子供が生まれると、そう云うように胎内におる子供は神様の氏子が宿ったと思うて大切にしなければいけない。
今日、私は、この万代の宝じゃと、これは、腹は万代までの宝じゃと云う事を、心は万代迄も宝じゃと、云う風に聞いて頂いたと思います。
確かに自分の心次第で、おかげを受けます、自分の心次第で、ご神徳も、霊徳も受ける事が出来ますから、確かに万代までの宝であります。
心は万代までの宝です、自分の心如何で、云うなら、永劫末代まで云わば御霊の世界に入っても光明世界に住みとおす事が出来るほどしのもの、又は、それを子に孫にまでも残してもおけると云うほどしのものですから、確かに心は万代までの宝なのですから、愈々心を大切にしなければいけないのであります。
ですから、いろんな例えば難儀の様相に見える問題、まあ難儀な事と一言で云えば難儀ですね、だから、そう云う難儀な事とか、自分の上に感じられる時には、それこそ、神様が自分の心に宿って下さった思うてその難儀そのものを、大事に大切にせなければならないと、それを、お粗末にしては、生みなされるものも、只おかげと云ったようなものにしか、生みなされて来ません。
やはり、そこからおかげと共に、ご神徳が生みなされて来ると云うような、おかげにして行かねばなりません。
最近、教団でも、頂く信心から、生みなす信心と云う事が云われます、今の合楽に大変、もう何と云うですか、目覚ましいと云うか、鮮やかとと云うか、毎日毎日、いわゆる奇跡の連続であります、お取次ぎを頂く私のほうが、ホ-っと云う程です、思いよる位ですから。
昨日は、親教会で一寸、記念祭の事で会合がございましたから、あちらへ、大体お話が終わったところへ電話が掛かって来ました、熊本から、ひと連れお参りがあっておって、先生に是非お礼が云いたいと云われるからと、云うのです、帰ってまいりましたら、そのあっちこっちからのお参りで、私を待って居られる方がございました。
さあ、一人一人お取次ぎさして頂いて、まあそれだけ一時間余りのお取次ぎさして頂いただけでも、ほんなこっちゃあるのと云いたい位です。
矢部の後藤さんから、電話が掛かって来た、大変な広大なおかげを頂いて、先日から、先日からと云うか随分永くなりますが、後藤さんを通してず-っとお願いがあった、それは、普通で考えたら助からんとは、助からんとじゃろうと云う様な感じの方でしたよね、あの白血病で、もう死を待つばかりの病人でしたよ、それが、此処でお取次ぎを頂いて、お願いするようになって、ず-っとそれこそ、医者が目を見張る様なおかげを頂いて、昨日おかげで、とうとう退院のおかげを頂いたと云うお届けでした。
今の白血病は、現代医学ではどうにもならん、と云われる程のもの、もう本当に死を待つばかりの、病人であったと云うお届があっとります、けどやっぱり皆んながね、本当に信心で、こげんとにおかげ頂けるならと云うのです。
熊本から、お参りして来ておった方達も、一人一人広大なもう、もうその医者に行っても病名が判らないのです、この胸がず-っと圧迫された様にして、しとりますから、御飯がいけないと云う人が、昨日は、そのお母さんがお礼に出て来て、嫁さんがそうだったんですけども、お取次ぎ頂いて、お願いさせて頂いとりましたら、この頃はもう、普通健康体と同じ様に、御飯が頂ける様になった。
先日から、その方と一緒に来ております、初めてお母さんが参って来ましたが、娘さんは、チョイチョイ青年会なども、お参りしますし、女子大生です、その兄さんに当たるとか、大学生ですが、その名前は坂本と云いますかね、お母さんが初めてお礼に出て来ました、と云うのは、ほんとこげん失礼な事はないと思うのですけども、この頃から、3人で参って来た、ここに青年会にずっとお参りして来ておる、兄さんを連れて参って来たのです、そして、いろんな事をお伺いして、あんたも信心せろと云う事でしたけど、いろんなお伺いをして、右が良いですよ、左が良いですよと、私が云う事に対して、理屈を云う訳ですね、それが、どの位的確に当たるか、そのデ-タか何かありますか、とこう云う訳なのです。
もうこれは難しか事云うと思うたけんで、そげな事は私は知らんばのと、私が云うて……
そういうところにお前はこげん所におれば連れて来てからと云うて、妹をこうこうやって腕で、云いますもん、私の前で、こげなもう何も判らん所へ連れて来てと云うて、判るちゅうけん出て来たのにと云うてから、私には云わんな、その妹を腕でこうこうやってこづきます、それでも、まあ私は、ご神米を下げて……
つっと先に立って帰りました、それが、今広島に行ってるそうですが。
先日電話が掛かってまいりましてねその参った事のないお母さんにです、合楽の金光様と云えば不思議な神様ばいと電話が掛かって来た、それが、そのアルバイトにね、本を売り歩いとるらしいのですよ、今流行りのね、何かまとまった本があるでしょう、それをね、ご神米を忘れて行った時は絶対売れんげな、ところが、ご神米を胸に抱いて行った時だけは、必ず売れるそうです。
それで、僕が此の頃から行ってからご無礼な事しとったんで、お詫びと、お礼に参って呉れと云うて、お母さん一緒に参って参りました、ご神米を胸に抱いて行くと、そのあらたかな事がわかって来たのです。
だから、成る程先生が云うている様に、信心は理屈じゃないと云う事、私もたまがりましたよ、例えば、右が良いと云うと、どう云う意味で右が良いか、どう云う意味で左がよいか、私には、判らんと、私が、そして、私が云う通りにすれば、おかげを頂きよるとじゃから、デ-タ迄取っとらんから、判らんばのと、そげな判らん、そげな事に何とかと云うて、えらい、私はもうそげな理屈な云いもきらん理屈を云うて、判らん理屈を云う訳です。
けれども、そのご神米を頂いて行くだけで、そう云うおかげを頂くと云うて、初めて母親が、そのう、昨日お礼にまたは、お詫びに他の連れの方と一緒に参って来とる。
あのアメリカに息子がおって、子供が妊娠のおかげを頂いた、だから、名前を頂きたいと云うて参って来た、その人も、昨日は一緒に来とりました。
これも、本当にそりゃ見事にいろいろな、ホウちゅうごたるおかげじゃないけれども、何にかにおかげを頂いとる、と云う事でございました。
丁度、取次ぎを終っとりましたら、見知らんが、見たごたる、と思いよったら、此の頃20日ぐらい前に戎浦さんのお導きで参って来た、戎浦さんが勤めておる、梶原かな?と云う病院の梶本か?と云う、もうこれも私はこれから、皆んなおかげを頂いた、病名やら状態やらば、いっちょ新聞の竹内君あたりによって、聞いて貰う様にせんと、聞いといて貰おうと、私は耳が遠かけん詳しくは判らんです、兎に角難しい病気である事だけは間違いないです。
だから、一人一人ようと、これは、昨日森山さん達親子三人で参って来たけど、兎に角、どげん考えても不思議で、胸をこう叩いてですね、森山さんちゅうて、日田から参って来る人ですよ、もうこれが、兎に角痛まんと云う事実がね、毎日、ひょっと心の中にひそかに、今日は痛ませんかと云うのがある訳です、それで、先生昨日、私は、初めて固い胴巻きのごたるとをしとるから、頭が高いごとありますけれども、頭が人のごと下げられませんから、ですけれども、本当に此処にそれこそ、畳に頭をひっつけてでも、お礼を云いたいと云う意味の事を云われます。
昨日も、前に病院に入院しておった、いろいろな難儀な人達のお届けを皆されてから、そして、許されるなら、今度の12月の報徳祭には是非とも、ご本部参拝にお供させて頂きたい、と云うお届けがございましたがね。
それも私は、どげな風な病名かようと知りませんからね、それが、こう云う病気で、こう云う状態でと云った様な事をよく聞いとかにゃ、お話をする時には、いけんなと思いますけれども、私はそこ辺のところを、もう神様が聞いてござるから、私は聞こえんでよかと云う行き方ですから、もう問題は病名は聞く事はいらん、病気の状態を聞く事はいらん、問題は、おかげを頂けばよかろうがのと云った様な行き方ですから。
けれども、私は、ああして新聞ども書きよる位じゃから、ああ云うおかげを頂いた人には、愈々いろんな状態やら、病名やらと云った様な事やら、一つ聞いとかにゃいけんじゃないかと思う位です、何ちゅう病気か知らんばってんちゅうごたる風で書く訳にはいかんですからね新聞に、やっぱり、何々病で何々と書かにゃいかんですから。
昨日、そんな事を思いましたよ、それも、これは大変な病気で、その苦しみ方が、あんまり苦しむから、打ってはならない、普通では打ってはならない、注射を毎日打たなければ、その折り合わないと云う病人でした。
その人の奥さんがこの20日ばかり前に、戎浦さんのお導きで参って来ました、と云って此処でいろいろこんこんとお話を頂いて行くうちに、おかげの泉を何冊も買って帰りました、その晩から、このおかげの泉をこれを少なくとも10回は読みなさいと表に書いてあるから、それを読みだしたと云うのです。
ところが、もう感動が起こってきて、一晩中寝られないから、繰り返し繰り返し、読ませて頂いた、その翌る朝から、痛みが止まった、だから、もう注射をせんでよか、なら、今日は注射をするまいと、云う様なもう20日あまり、ず-っと続いております、そして、顔色が良くなって、御飯が頂ける様になって、爪の色まで変わって、昨日お礼に出て来ました。
その本人の家内と、戎浦さんと2人でお礼に出て来ました、だから、これも看護婦としてからですね、云うなら医学的に云うなら、想像もつかなければ、その判らない訳です、所謂、神様のおかげ、兎に角、おかげの泉を、繰り返し繰り返し、読んでおかげを頂いたと云う訳です。
それが、その人が又、自分の親戚の何とかと云う名刺まで頂いて
参りまして、詳しく年まで書いてあります、阿部さんと云う、この人がまた、大変難しい何とか病、病名を聞かなかったけど、おかげ頂きます様にと云うて、その方のお届けも一緒にございました。
もう本当に、最近毎日毎日が、そう云う素晴らしいおかげを云うなら、シャ-プなおかげが合楽のお広前に輝いております、けれども、これはどこまでも、云うならば、頂く信心であります。
だから、頂く信心と云うと同時に、生みなす信心の方にもです、同じ働きはあっておるのだと云う事です、下から上へ水を引くのは難しいがと云う様なご理解がありますがね。
私は、今こそ合楽の皆さんがです、毎日ここで起きておる奇跡ですね、昨日だけでも、そんな、もう、死を待つばかりと云う様な病人が、助かって行く様なおかげを頂いておる、その事実を見て、お互いがホウホウと云うとるばかりでなくてです、それはどこまでも頂く信心であります。
だから、頂く信心から、生みなす信心、その生みなす信心を皆さんの場合は、何年、何十年と続けてある訳です、ですから、そう云うシャ-プなおかげがです、その生みなす信心の上にも、さっきから話します様に、ず-っと好か顔ばかり、見て来とんなさる訳でしょう、皆さんが。
林長二郎やら、山田五十鈴のごたる、綺麗な美男美女と云った様な写真を部屋中に張って、自分の子供の、こげな可愛らしく、こげん器量の良か様な、子供の出来る様にと云う様な思いをいておったら、両親はさほどに、器量はようないけれども、生まれて来た息子は、本当に玉の様なこえらしい男の子が、息子が生まれたと云う様に、皆さんの生みなされるところの、これからのおかげと云うもの、そう云うおかげが生みなされなければ、働きそのものは、同じにあっておると云う事です。
頂く信心にも、生みなす信心の上にも、そこで、私共が、私共と云うより皆さんがです、ほう、新しい信者だけが、そげんおかげば頂くとばいなと、云う事でなくて、そう云う働きが合楽全体に起こっておると云う事を、判らせて頂いて、今迄云わば、見て来た、聞いて来た、その信心をもう一辺改めて頂き直さなければいけないと云う事であります。
それを、最近では、簡単に合楽理念とこう云うとります、合楽理念に立脚して、愈々成り行きを尊ばして頂くと云う事が、なぜ、成り行きを大切にする事が、おかげに繋がるのか、なぜ、全ての事柄に御の字をつけて、頂くと云う事が有り難い事なのか、今、徳の元であるところの問題が胎内に宿ったのである、それを大事にして行く事のために愈々広い大きいおかげを頂くために、すべての事を神の働きと云うか、寛の字で受けなければならないかと云う事の、云うなら理屈の上に於いては、理論の上に於いては、皆さんがもう繰り返し頂いておられる事であります。
だから、この在り方を愈々身につけて、最近云われる、為せば成る為さねば成らぬ何事も、成らぬは己が為さぬなりけり、であります、そう云う素晴らしい信心を身につけて来たと同時にですね、玉水教会の云うならば、ご比礼にあやからせて頂きたい。
それは、私共が、どう云う事であったかと云うと、成り行きを大切にして来たと云うだけではなくて、為そうと思えば子供でもなせた事を、例えて云うと、私が夜中にここにお礼に出て来ます、ですから、もう、つうと起きてから、寝衣のままで、上から上っ張りかなんか着て来ればよい様なもんですけれども、私は、必ず羽織袴をはいて、やっぱり白足袋はいて、ここに出て来ます。
だからもう、面倒臭いと云うたら、信心はありませんです、だから、皆さん面倒臭いと思うたら、いやいや、その面倒臭い事を、面倒臭く無い迄に、仕上げて行く事が信心です、だから、なそうと思うたら出来ぬ事はないでしょうが、羽織どん着たり、袴どんはいたりする事は、これは取次者で、皆さんに羽織てん、袴てん、羽織袴着けろと云うのではないですよ。
なら、皆さんでん一寸ご神前に出られる時はです、エプロンどん掛けとるなら、エプロンは取らなければならない、そりゃ、エプロン取るのが面倒臭いと云うて、エプロン着たままポンポンと手を打つ様な事じゃいけないと云う事ですよ、改まって拝む時にほんなごて、羽織の一つ位ひっかけてから、神前には出らにゃいけん、これは、一事が万事そうなんです。
やろうと思えば子供でもなせる様な事をです、今迄おろそかにして来ておった、そこからおかげが漏れておったと云われるのですから、愈々です、歌の意味から云うと、大変厳しい、難しい様な事を云うけれども、それを今の合楽ではです、なそうと思えば子供でもなせる事を、なしていなかった事を改めて、気づかせて頂いて、おかげを頂いて行かねばならない。
そう云う例えば合楽の信心が精進に乗った途端にです、合楽では水も漏らさぬおかげが表れておる事実を、皆さんが、最近奇跡の話しを毎日二つ三つ致しますが、そう云うおかげの受けられる、お取次ぎを頂き、そう云うおかげの頂かれる、合楽のお広前に、ご神縁を頂いておるのは、新しく参って来る人だけが、そう云うシャ-プなおかげでなくて、お互いおかげ信心の稽古をさせて頂いておる自分達の上にも同じ働きがあっておるんだと云う事です。
但し、今お参りしておかげを受けておる人達はどこまでも、信心の判る訳はないのですから、いわゆる、頂く信心です、けども、皆さんの場合には、生み為す信心になって行かなきゃならないと云う事です。
そこで、胎教を大事にせよ、と云う事、愈々成り行きを大事にせよ、すべて御の字で頂いて行けと云う様な意味合いのです、だから、そう云う今迄稽古をして来た事をもう一辺、再検討さして貰うて、生き生きとした、水水しいまでの、そう云う信心を愈々身に着け、実行させて貰うて、為そうと思えば子供でもなせる様な事を、おろそかにしておった事に、改めて気付かせて貰うて大事にして行く信心を、だからそこんところを、最近私が云っておる信心に掛かりきらなければいけないと云う事です。
信心に掛かりきらなけりゃならんと云う事は、ず-っと参っとかんならん、ず-っとご用頂かんならん、いつもお広前に居らんならんと云う事ではなくて、そこを、表行が全廃となって、心行を一つにと云う事になって来る、心行でいつもかつも、自分の心の中にです、面倒臭いなと云う気が起こった時には、それを、心行を以ってすると、これが、自分の今迄欠けておったところだと思うて、大事にして行かなけりゃいけないと、云うものです。
昨日、ある方が熱心にご夫婦で、信心の稽古ができます、今、おばあさんが具合が悪くて寝んでおられますが、毎日、掛かり付けのお医者さんが見えます、そのおばあさんと、お医者さんの対話です、それを私、昨日聞きながら、私自身大変おかげ頂いたんです、おばあさんが、お医者さんに云いよんなさいます「信心もあんまり仕過ぎちゃ、いけませんのうや」と云うちから、云いよんなさった、そしたらですね、もうそのお医者さんが、それこそ、ご理解の様な話しを長々と、おばあさんにされたと云う事です「私も、随分いろんな臨終に会ったけれども、宗教をしてから、この我を取る稽古をした人達の臨終は素晴らしい、あんた、そげな事云いよるなら、碌な死に方はせんばの」と云った様な事云われてですね「第一信心ちゃどがしこしても、どがしこしても良かのが、信心ばの」と云わしゃった「けど信心ちゃどこまでも、我を取る稽古じゃろうがの」と私は、そこば聞いた時ですね、もう改めて信心ちゃ、我を取る為だけれども、そのお医者さんの云われたと云う話しを聞いてからね、改めてそうだと思いました。
だから、信心の仕過ぎちゃ絶対なかばのと、信心はもうどれだけしてもよいけど、信心してね、気違いなんかに、なったとするなら、その信心はおかしかけど、そげんた所謂、ご利益信心、所謂、教祖様が仰有る本心の玉を磨くものぞやとか、日々の改まりが第一ぞと仰有る事も、日々の改まりも、本心の玉を磨くと云う事も、云うなら、我を取ると云う事に尽きるのです。
我を取る為には、改まらにゃいけませんし、我を取る為には磨かなければいけません、我を取ると云う事は、もう全然不平不足のない世界です、我を取ると云う事はです、不平不足のない世界であると同時にです、高橋正雄先生のお言葉を借りますと、どうでも良いと云う境地です、我を取ると云う事はね、不平不足がない、然もどうでも良いと云うのですから、不平不足の起ころう筈がない、一生懸命お参りもする、お願いもする、み教えも行ずる、修行もさせて貰う、そこからです、答えは右もなからなければ、左もない、どうでも良いと云う世界があるのです、どうでも良いと云う世界、そこにです、そう云う心の状態を開いて行く、それが我を取る事だと云うのです。
私が、もう、20数年前に、私の紋が梅に鉢が付いている、丸い輪が付いている、神様から、輪を取る事を頂いた、合楽の私の紋は皆この天満宮さんの紋と同じです、なしかと云うと、丸い枠があったら大きうなれないと、だから、私の紋は全部この紋にしてしまいました。
この修行生の方達も、私の紋を頂くと云う人はこの紋をつけとります、これは、枠を取れ、我を取れと云う事なんです、我があったら大きくなれないと云う事です、私がと云う我があってはいけない、なら、我の取れた姿は、不平不足がないと云う事、とってもよい、だから、皆さん不平不足の心が起こって来た時には、今、我が出ておると、それを取り除かねばいけないと、云う精進をせなければいけない、そして、なら、どうでもよいと云う信心からです、これは、総代の高芝秀雄さんが頂かれた、もう20数年前に頂いたご理解だけれども、小我を捨てて、大我に生き抜けと云うご理解を頂いた事があります。
小さい我を捨てて、人間的な我を捨てて大我に、生きる、それこそ、神様が持っておられる様な我、云うなら、神様が願いとされる様な、願いをさして貰う、そして、その願いがどうでも、云うなら合楽教会大発展の御神願御成就に相成ります様に、と云った様な和賀心時代をどうぞ、世界に広めさせて下さい、そう云うお役に立たせて下さいと、云う様な願いをどうでも、大願成就の願いをすると云う事が、大我に生き抜く事です。
大きな我でなけりゃいけん、だから、自分の小さい、自分の周辺の我と云った様なものの我を取る事が小我を取る事です、小さい我を取る事、そこに、不平もなければ不足もない、そして、どうでも良いと云う心が生まれて来て、それは、どうでも良いと云う心を、大我に生き抜く信心をさして貰わねばいけんのだ、今日は皆さん、どうでもおかげを頂いて貰いたいと云う願いを願いながら、聞いて頂いとる訳ですけれども。
今はじめに、お話を聞いて頂きました、それこそ、大変な病気が、昨日だけでも、いろいろ、例えば、御神米一つ鞄に抱いて行けば、売れないものが、売れると云う様なそれは、どこまでも、云わば、頂く信心であり、そう云う一つの合楽の関係のある皆さんの上に、誰の上にでも表れておる、それはもう、新しい信者だけに、新しく入って来たもんだけを、おかげを頂くと云う事ではないと云う事、そう云う働きが合楽全体に起こっておるんだと云う事。
そこで、そう云う人達の信心を頂く信心と、そこで、皆さんの場合は生みなす信心にならなければならない、生みなす原理と云うものを聞いておられる、合楽の理念であり、又は、実意丁寧神信心であり、為そうと思えば子供でも為せる様な事をおろそかにせんでと云う、そう云う今の合楽の信心に便乗する、そう云う信心になる限りです、そう云うシャ-プなおかげが、自分達の上にも生みなされて来る訳です、皆さん方の場合は、頂く信心から生みなす信心、とはそう云う事だと、思うです、その生みなす信心が、しだごだになって、皆さんの場合は流産になっておる様な事ではないだろうかと云う事です。
そして、皆さんがです、合楽理念の研究が足りんのだ、合楽理念の云わば実際の行の上には現れていないのだ、今、合楽で云われる一つの段階なら信心の、いわゆる、子供でも為そうと思えば、為されると云った様な事を実行すると云う段階に入っておる、段階に入っておりながら、皆さんはここに、その段階を一段も上がってないと云う事になるのです、そう云う合楽の動きと共に、おかげを頂いていくならば、皆さんの上にも、云うなら、御神米を抱いて行くならば、商いがある思いが成就する、願いが叶うと云う様なおかげになるのです。
もう死を待つばかりの病人が、おかげで退院のおけげを頂いた、と云う様なおかげになって来る筈だ、そう云う信心が皆さんの場合は、生みなされて来る筈だと云う事を、今日は聞いて頂いた、腹は万代までの宝だと仰有るが、今日はその心は万代までの宝だと、心次第でおかげも受けられる、心次第でお徳も受けられる、と云う事を今日は、聞いて頂いたですね。 どうぞ。